2025/07/10 09:00

 「江戸時代に石鹸があった」と言っても、さほど驚かないでしょうが、「江戸時代に窓ガラスがあった」と聞くと驚く方もいるかもしれません。時代劇などを見ても窓ガラスはありませんし、古い建物の多くは窓ガラスをはめた形跡が見当たりません。当時の窓は、障子1枚でしたから、夏は風雨で破れ、冬は寒さに凍えたことでしょう。もし今、窓ガラスのない部屋に住んだら、夏の暑さ冬の寒さに耐えきれないと思います。昔の人はとても体がじょうぶだったのでしょう。でも、やっぱり、無理をしたせいで、今の人ほど長生きはできませんでした。でも、そんな江戸時代でも、長崎の出島のオランダ商館では窓にガラスが入っていましたし、高価な品でしたが、日本でも窓ガラスは販売されていました。大名や豪商など裕福な人が購入し部屋の窓にはめることはあったようです。でも、一般の人々にまでは普及しなかったようです。舶来品でありとても高価な物だったこともありますが、その製法などはすでに日本に伝わっており、日本にはガラスの器を作る職人もいたため、もし欲しい人が大勢いれば、国内で安価に製造することができました。でもそうしなかったのは、昔の人は窓ガラスがどれだけよいものかを知らなかったからです。


 それには理由があります。それは、日本には障子があったからです。なぜ、窓にガラスをはめる必要があるのか?それは、風が部屋の中に入ることを防ぎつつ、外の光を部屋の中へ取り入れるためです。板戸を閉めれば、部屋の中は暗くて作業できません。一方、板戸を開ければ、風が入ってきて、暑さ寒さに苦しめられます。そこでヨーロッパでは、ガラスを平らにして窓にはめる技術を開発しました。この技術も実は予想よりはるかに古く、古代ローマ帝国の時代にはすでに確立されていました。古代ローマ帝国時代の建物には窓ガラスがはまっていたようです。それが、西ローマ帝国の滅亡で、職人が離散し、技術が失われ、板ガラスの製造できなくなってしまいました。そのため、中世ヨーロッパでは代用品として羊皮紙を窓に貼って防風と彩光をしていたそうです。でも羊皮紙はあまり光を通さず、部屋が暗すぎて困っていたようです。それがルネッサンスにより古代の知識が掘り起こされ、ガラス職人の手によって板ガラス製造は再開されました。困っていたところに板ガラスが製造されたものですから、ヨーロッパでは瞬く間に窓ガラスが普及したようです。

 一方、障子は、羊皮紙と違い光をよく通すため、障子を貼っておけば、風は通さず光だけ通し、彩光には問題がありません。窓に障子を貼れば、部屋で普通に作業ができます。そのため、日本では部屋の彩光のため障子以外のものを求める動機がありませんでした。また、ガラスが暑さ寒さを防ぎ部屋の中を気密に保つ働きがあることは、窓ガラスをはめて初めて知られるようになったことであり、気密性のある部屋が快適なことを知らない人たちは、その必要性を感じていませんでした。ただ、一度知ったらもうやめられないもので、明治期になり西洋嗜好が広まると、日本では、彩光のためより、むしろ部屋の気密性を保持し暖房の効きをよくするため窓ガラスが普及しました。

 石鹸も窓ガラスとよく似た経緯をたどっています。石鹸が日本にもたらされたのは室町時代とかなり昔ですが、普及したのは、明治時代です。江戸時代には一部普及したのですが、それがなんと “シャボン玉を作るため”でした 。完全に宝の持ち腐れ状態です。でも、当時の人たちは、石鹸により体の汚れが落ち清々しい気持ちになれることを知りませんでした。体が油っこいのは当たり前。髪がベタベタするのも当たり前、快適な状態を知らないので、石鹸の必要性を感じていませんでした。一方、江戸や大阪の街ではシャボン玉に人気があり、そのため、石鹸水の需要があったのです。

 どんなによいものでも、それなしですませていた人たちにとってはなくても問題がないもの。きっかけがなければ、そのよさを知ることはありません。でも、一旦、そのよさを知れば、その快適さを手放せなくなります。誰もがその良さを知ることができるようになったのは、近代資本主義が発達してからのようです。

 でも、今でも、すべての商品がそのように知られているとは限りません。紹介することで大きなお金が動く品物しか、人々に紹介されません。ですので、ちょっとしたささやかな品物は人々に知られることなくひっそりと愛好者が使っています。私は、クノッソス石鹸もそんなひっそりと人々に知られている品物かなと感じています。